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平田雅哉 大工一代 を読む 永見隆幸 [永見隆幸先生information]



永見隆幸先生が西村屋平田館を訪問された時のお話を伺い、本ブログで「永見隆幸 西村屋平田館を訪問」という記事を書きました。その時に引用した平田雅哉『大工一代』の反響が思いのほか大きく、改めて この記事の着手を決意。永見先生にお借りした文庫本『大工一代』には付箋が沢山ついており、本書から先生が何を読取られたのかを窺い知る機会も得ました。この記事では、その部分を中心に、平田雅哉の人物像に迫りたいと思います。



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二冊の『大工一代』を手にする永見隆幸先生
左:昭和36年=1961年 初版(池田書店)
右:平成13年=2001年 初版(建築資料研究社)



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『大工一代』平成30年=2018年 初版(角川ソフィア文庫)





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平田雅哉 HIRATA Masaya

明治33年(1900年)~昭和55年(1980年)
大阪の堺生れ。生涯で400にも上る建築を手掛け、数寄屋建築の名工としてその名を馳せた。藤原新三郎の下で修業し、後に事実上の後継者になる。大工として働きながら自ら図面を引いた。製図や彫刻にも堪能で、それらにも多くの時間を費やした故に、作品が数多く残されている。昭和の左甚五郎と謳われた。

平田雅哉が語り、内田克己によって聞き書きされた「工匠談義」が、「大阪手帖」に5年にわたり連載される。それを書籍化した『大工一代』(昭和36年=1961年/発行:池田書店)は大評判になり、『大工太平記』(昭和40年=1965年/制作:東宝/主演:森繁久弥)として映画化された。

書籍に、『数寄屋建築・平田雅哉作品集』(昭和43年=1968年/発行:創元社)、『数寄屋造り・平田雅哉作品集』(昭和47年=1972年/発行:毎日新聞社)、『床の間図集』(昭和50年=1975年/発行:創元社)、『数奇屋建築の技法 平田雅哉から平田建設へ』(昭和60年=1985年/編集:和風建築社)など。

主な建築作品に、旅館「西村屋」(兵庫)、料亭「吉兆」高麗橋本店(大阪)、旅館「大観荘」(熱海)、旅館「つるや」(芦原)、料亭「雲月」(京都)、旅館「万亭」(和歌山)、料亭「招福楼」(八日市)、西南院(高野山)、料亭「錦戸」(大阪)、料亭「洗心亭」(大阪)、朝香宮邸茶室「光華」(東京)、茶室「如意庵」(大徳寺)、茶室「松籟亭」(広島)、「万里荘」(大阪)、料亭「なか川」、料亭「わか松」、料亭「相生」、料亭「現長」、料亭「青雲」、旅館「福田」、川上神社茶室、源生寺、川端康成の常宿だった金森旅館、ほか。





丹下健三と並んで日本建築界の巨匠と称される村野藤吾が、初めて平田雅哉に会った時の印象を、エッセイ「最後の一人」で次のように述べています。


長い間の修練に耐えて自我を通してきた「大棟梁」の面影があった。その気骨は、金と権威に自らを捨てぬ 不屈の魂が躍如として、寄らば切らん の構えが感ぜられた。私は棟梁の向こう側に座った。瞬間、一言も言わないうちから この勝負は私が負けたと思った。





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平田雅哉の言葉を『大工一代』から引用させていただきます…

注意書きにある通り、不適切な表現がありますが、著者が故人であること、また大工職人の聞書をもとに当時の社会風俗・時代背景を描いたものであり、著者自身にも差別的意図はない事を考え合わせ、原文のままとしました。





大工の道に入って五十年、意地と負けん気が唯一の師匠だと思っている。そして一生が勉強だという考えは今も変わらない。



Aさんは、平田 怒っては困るんだけど、と言ってから、Cの見たところでは、この建築は大分坪数が不足していると言うんだけど、その点どうかということであった。
話しがそんなことと分ると、わしのことだ、ぐっと腹が立って来た。と言ってAさんに むかっ腹を立てる筋合いでもないので、よろしい、ご主人 それだったら、あなたの疑いを晴らしましょう、と言って 早速所轄の警察の建築課に行って、実は、わしは こういう疑いをかけられている。それが事実だったら平田は罪を犯したことになるから、厳重に調べて欲しい、と言って 実測を警察の手でやって貰うことにした。
実測の結果、Cさんの意見とは逆に五坪ほど多くなった。わしとしては当然のことで何の不思議もないのだが、少しでも疑っていた主人は大変な恐縮ぶりだ。でも事の起こりはCさんなので、わしは直ぐCさんを訪ねて強談判にかかった。五坪の違いが出て来たのは、普通は六尺一間なんだが、わしの一間は六尺三寸を採っていたからである。
いずれにしろ警察の実測があることなのでCさんは全く抗弁のしようがない。あなたの中傷のおかげで この五坪の開きが明るみに出て来たが、これにはAさんに責任はない、責任はあなたにとって欲しいと言って、わしが玩として動かなかったので、とうとうCさんも負けて、当時の金にして五坪代 四千円ほどのものを渋々出して来た。
わしは その金を持って、今度はAさんに会い、これまでのことを話してから、これで平田の気持ちは収まったから、この金はあなたにお渡しする。だから金をCさんに返してやろうとどうなと、そこはいいようにしてくれと言って笑い納めた。



人間は生涯が苦労の連続だというのが わしの実感だ。



困難なこと 難しいこと は 若い時も年とってからも変わりはない。それなのに一向苦にならんのは大工が好きで、天職と覚悟して迷わなかった故かも知れん。だから、かえって難儀な仕事には進んで自分から立ち向かった。何とかなるもんだ仕事という奴は。
貧乏については子供の頃から嫌というほどぶつかったから、貧乏話を求められれば人後に落ちんつもりだが、貧乏に負けずに大工一本で貫けたのは、矢張り この仕事が性に合っていて、何よりも好きだったからだろう。自殺を考えたことも二、三度あるが、それは子供の時は別として、大人になってからは死んで行く家内や残された子供への愛情に追い詰められた時であった。一生に何度か 日に何度か、人間は窮することがあるが、自から道は通ずるようだ。わしら 取るに足らん人間でも、だから心の持ち方によっては極楽だ。
誰に迷惑をかけることもなく 結構人生は楽しい。苦しみあり 哀しみあるのは 人の世の常道で、そんなことは当り前だ。



乾の隅に門を建てる計画だったので、そのために墨付けも終わり、建前にかかろうとすると、ご主人がちょっと待ってくれと言った。訳は どうやら隣家に対する遠慮のためらしい。かねて隣がこの門に反対していることは知っていた。だが そんなことで仕事が進められんのは困る。そこで よろしい わしが話をつけようと言って、隣家との境界をはっきりさせて置いてから、見ると丁度 隣家の樟の大木が こちらに不法侵入しているのに目をつけたので、その樟の木の境界線に当る辺りに縄を掛け、ここから切ってしまうからと弟子に連絡さすと、隣の奥さん、今にも鋸を入れかけているのでびっくりして、主人を呼ぶから、ちょっと待ってくれと言った。奥さんが主人に電話で急報したものだろう。やがて隣家の主人が大阪から帰って来た。話は直ぐに解決した。自分の方のことばかり考えて、あなたの方のことを少しも考えに入れなかったのは悪かった、という訳で 乾に門も建ててよいことになった。



「呑んだの惣」という奴がいた。つまり呑んだくれということだが、わしより大分先輩格の職人だった。腕は出来たが大変な増上慢で、そのため仲間から怖がられていた。結局「呑んだの惣」は綽名にふさわしく酒で身を滅ぼした形で、晩年は わしの家で世話をしてやった。わしが酒を たしなまないから言う訳ではないが、酒好きな奴は大抵駄目だったように思う。いい点があっても それ以上に酒が人間を駄目にしてしまった。



大工で棟梁となるほどの人は、茶や生花の心得があったのは、当時としては当り前のことであった。



大工として先ず成功したと言うのは、独立して棟梁になることだろう。金を残すかどうかなんてことは成功とは言えない。



建前も何の間違いもなく終わって、あとは ご祝儀の酒になった。その時、黒徳は よくやった と褒めてくれてから、お祝いに秘密の仕事を教えようと言った。それは六角の墨の仕様だった。六角の墨付は宮大工には大切なことだが、わしら茶の間大工には さして必要ではなかった。しかし、これは昔から大変難しい仕事の一つに挙げられていた。
黒徳は一通り六角の墨付を説明してから「分ったか?」と言ったが、わしが「分らん」と答えると、黒徳は もう一度説明し直してから、「どうだ」と聞くので、「まだ、分らん」と言ってから「せっかく教えて貰って有難いが あなたの教えてくれたのは、一通り教えてくれたというだけで、何か肝心のことが欠けているように思う」と付加えると、黒徳は「それが分っていれば、もう教えるに及ばん」と言った。



厳し過ぎるかも知れんが、見込みの無い者が 見込みの無い道で苦労するのは、大変な無駄だから、一日も早く方向を立て直すのが得だというのが わしの考え方だ。
そんな訳で、わしは翌日すぐ弟子を親元に送って行った。ところが親たちは、我が子可愛さで、わしを恨んでいたようだったが、事情を説明して、こんな根性では とても一人前の大工にはなれんからと言うと、ようやく納得した。
しかし、人間の縁とは分らんもんで 後年、疎開先で わしは この弟子に偶然会った。聞くと 野丁場の仕事をしているということだった。考えて見れば、人ってそう変わったことができるものでなし、仮に駄目だと言われても、本人になってみれば、そう簡単に全てを諦められぬのが人間だ。一流だ名工だ などと言われなくとも、人間の幸福は幾らでも求められるという平凡な事実の方が大切かも知れない。





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平田雅哉『大工一代』昭和36年=1961年 初版(池田書店)





古いも新しいもない、美しいものには他愛もなく惚れ込んでしまう方だ。別に これという物差しは立てないが、だいたい自然なもの、無理のない美しいものが好きだ。



たたき大工の わしが、いつ そんな勉強をしたか尋ねられるが、答えも決っている。わしには師匠もなかったが、弟子もない。言って見れば、性質の負けず嫌いが、こうしてくれたので、わしの一生は見ることと実行することだった。



彫刻というと生意気かも知れんが、根が好きだったことにもよるが、終戦直後の闇商売が嫌で彫刻を始めた。やり出してみると、捨てる木も何かの形になるので、おいおい深入りして、いまだに続けている。



言葉が汚いと言うより、わしの言葉は粗野なんだ。大工でも利口な者は そんなことはなかろうが、言葉に対する不注意もあって、言葉についての失敗は数多い。



早く亡くなった母は信仰の篤い人だったが、何の因果か、わしは一向そんなことは無頓着だ。あまつさえ この世に神も仏もあるものかと放言している。これも余り若い時 苦労し過ぎたおかげだろう。



誰だって そうだと思うが、人の一生には色々なことがあるものだ。これらの経験が子孫に受継がれ、大いに教訓になって行けば立派な人間ばかりになる筈だが、哀しいことには人間とは そうは問屋が卸してくれんようだ。だから いつも人間は一人一人が赤ん坊の「いろは」から始めて、おなじような失敗を繰返し、同じような喜びや哀しみを経験して いつかまた この世から消えてしまうのが その習わし らしい。こんな風に考え込むと、何だか生きるのが面倒臭いが、年を取るにつれて、わしは物を創る喜びというようなものを強く感じるようになった。建築は家業とは言え、人のおかげで色々な変わった建築が手掛けられるのは、本当に冥加に尽きると思う。もちろん商売だから時に嫌なこともあるが、こと建築に限ると、わしにとって こんな結構なことはない。それと彫刻をやっている時が一番楽しい。別に これで有名になろうとも、金を儲けようとも思わんだけに 余計そう思うのかも知れん。そんな意味でも わしの現在は極楽のようなものだ。皆若い時に苦労してしまったおかげだと思って、余り欲を出さんようにしている。金なんて そんなに欲しいとは思わん。



苦しさの余り、何度か死のうとしたことがあるが、よくもあの時死んでいなくってよかったと、今ではそんな昔を思い出すこともある。父親に虐待され 玄翁で頭を殴って自殺を考え、それがうまく行かず野井戸に飛込んだ子供の時のこと、一家ガス自殺を図った三十代の時のこと、そのガス心中を考えた時の家内が肺病で亡くなった後 わしは子供二人、それも乳呑児を抱えて途方に暮れた。その時も わしは、死んだ家内のことと子供を考え、乳呑児を連れて働くにも働けず、堺の東池に飛込もうと 二度も ほっつき歩いたことがあるが、あの時の気持ちも 今から思えば紙一重の運命であった。人が死を考えるなんて心の弱っている証拠かも知れんが、心の弱った人間にとっては、そんなことは屁理屈に過ぎん。



わしが若い奴らに口やかましいのは、自分の若かった日の修行時代を思って 勉強しておくのは若い時しかないと思うからのことだ。
しかし考えてみると 若い気持ちには、老人の言うことは、なかなか耳に入らんものかも知れん。お前の若かった時はどうだったと言われると、わしも そう たやすく人の言う通りにはならなかったけど、だが 仕事に関しては誰に言われるまでもなく、進んで困難にぶつかって 早く自分のものにしようと努力したものだ、大工として志を立てた以上、その程度の努力はするのが普通である。そう考えると、今の若い奴らの仕事ぶりが歯がゆくてならん。



兵隊で わしは人生の要領とか その他 良いこと悪いことを種々教えられたが、そのうちでも良かったと思うのは、自分の体力に自信を得たことと、己れの力の限界を教えて貰ったことだ。なるほど兵隊生活は誰もが言うように辛いことも多いが、その辛いうちに、自分の力量の限界を知ったことは、その後の わしの人生にとって大変 役に立ったように思う。



わしとて、そう意志の強い人間ではないが、物心ついた十四歳の頃から今日まで、その時々の境遇は違っても、体を張って、ひとには決して迷惑をかけないということばかり考えて来た。捨身の決心でやれば、少しは何かが出来るというのが その頃から今日まで、わしの一貫した生き方だが、その反面 心余って死を覚悟したことも度々ある。





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平田雅哉『大工一代』平成13年=2001年 初版(建築資料研究社)





明治から大正にかけて、大阪には茶室専門の大工が三人あった。裏千家では黒徳清平、表千家には木津宗匠の出入大工の三木久。この人は仕事熱心の余り自分の局部を切断して励んだと聞いている。もう一人は、わしの世話になった藤原新三郎棟梁である。当時この三人を呼んで三羽烏と言った。わしの知った頃の藤原棟梁は既に大棟梁の時代であったが、ここに来るまでには木津宗匠について、安日給で図面を引き、大変な苦労だったと何度か聞かされた。



年恰好も そう違わぬ連中が、それぞれ座敷などを受持って張切っているのに、わしは押入れ、女中部屋、天井仕事など余りふるわぬ付属の仕事ばかりだ。しかし それでも慌てて失敗して一ヵ所が落ちれば、次々と落ち、仕事の仕口をいためて、我ながら恥かしい思いも何回かあった。昔から言う「手切り、まら出し、釘こぼし、差金探しのウロウロ大工」その言葉通りだ。また下手な大工を「しまい風呂」とも言った。蔭口も何度か聞かされた。しかし下手は隠しようがない。ただ負けぬ気から わしは人一倍努力した。夜は自分の体になるので、明日の仕事の準備にノミなどを研ぐことにした。



五十年、自分に言い聞かせて来たことは「自分の職に生きること。そのためには、職以外のことは知らぬが良い。知ると高慢になる。喜びは人と共に、建物は風呂敷に包まれないから、金を残すより仕事で残す。」これぐらいのことだ。そして、神仏よりも己の心一つに頼って、今日まで働いて来た。



責任がある訳だから、いい加減のことは出来ん。で、仕事を引受けるまでに、施主と十二分に話し合うことにしている。これは相手の人柄や、性質、趣味、家族などを知ることが出来るからで、建築の設計は、施主の そういう様々なものが考えられて後、建築の形となり、構造となり、装飾にも及んで 一つの建物に纏められる訳だ。もちろん この場合 職業も知らねばならんし、家の建てられる環境だって大切だ。商売だって繁盛して貰わねば 家だけ立派でも商売に向かないでは困る。悪い道楽がある人だったら、そういう道楽がなおるようにと思って設計を考える。建築はこちらが専門だからと言って、ヘイ承知したで、自分勝手の家を建てる訳にはいかん。



今 言っている数寄屋建築は、茶室建築と住宅建築が、両方から影響し合ったものと思っているが、一口で言うと、その特色は壁面が広く、天井の低いことだろう。だいたい軒が低く、壁面の多いことは安定感を与える。軒が低いと天井に重量が掛かるので、数寄屋建築では そこに種々工夫が要る。これを外観から見ると、軽快で安定した感じが出る。それだけに建築上の工夫が内に深く隠されている訳だ。自然そのために 使われる材料の木材も吟味され細くて強いものが使われるが、わしは丸太を有効に使うようにしている。材木は太いばかりが強いとは言えないのである。同じ材木でも目が通っているのと そうでないのとでも大変違っているし、また目が細かいか粗いかでも違って来る。
わしは材料を材木屋で買うと、高くつくので、山から丸太を買って、うちで挽くが、丸太を挽くのも楽しいものだ。節があれば節を包んでしまうような挽き方も出来るから 工夫という奴は面白い。



第一、自分はまだ、わしこそ大工だと威張れるほどの職人だとは思っていない。強いて言えば大工手伝ぐらいかも知れん。その程度の大工でも、平田、平田と親切にして貰えるのは、他の奴らが、余りでたらめだからだと思う。良い仕事をするということは、自分のためであり、また施主のためである。儲けだけに走っていては、とても満足な仕事は出来ん。と言って損をしていては続かん、この辺が難しいところだ。建築は芸術と違って、元々人が住むという実用が主だから、総合芸術だなどと おだてられたって、わしらには一向ピンと来ん。見ても美しいし、住んで気持ちがよいということが大事である。それには、矢張り無理はいかん。自然な方がよいようだ。



若い間だけだから、人の二倍も三倍も勉強しろ、つまり働きながら研究するように言うが、何となく打てば響くという感じは出ん。わしらの若かった時は、何でも人に遅れを取らんようにと、腕を磨いたものだ。
年功などより、職人の値打は腕しか無かった。腕が無ければ、なんぼ年上でも小さくなっていなければならなかったものだ。また後輩で修行中の者は、先輩たちが休んで火を囲んでいる時でも、自分から進んで、先輩たちの道具を磨いたりしたもんだ。決して皆と同じように火に当っていることは許されなかった。一事が万事その調子で、職人の生命は腕しかなかった。もちろん腕はあっても身持ちが悪かったり、その他の欠けるところがあって脱落して行く職人も、たまにはと言うより、永い一生の間では数多く見てきたが、これは職人に限らん、人間という奴だ。運命となると、人は明日のことも分らん。だから、今日の日を誠実と親切で生きて、仕事に責任を感じろというのが、簡単に言えば わしの説教だ。



新築だからといって、材木が全部新しいものでなければならんということはない。使う場所によっては、古材で十分だし、古材の方がよいということは沢山あるが、施主にしても職人も これを余り喜ばん。仕事が面倒だったり、損をするような気がするからだろう。しかし古材はよく乾燥しているから、狂いが少ないが、若い新材は 日が立って狂いが出て来る。
設計のことでは、通風、採光は誰しも考えるし、当然のことだが、矢張り環境のことも考えることが大切である。その時も、己だけの利益を主にすることは よくないと思う。隣近所があっての自分の家だ。如何に建築が立派でも隣り近所に迷惑を掛けてはよくない。なかなか そんな風には考えられんらしいが、そのぐらいの思い遣りがあって、はじめて家にも施主の品位があらわれるものだ。設計をする我々が先ず そこを考えんならんことは当り前のことである。



大工に限らず どんな職業でも そうだと思うが、自分の職業の楽しさを早く知ることだと思う。不平があったり、迷っていては 腕は上達せん。人間の楽しみが、仕事や生活と別にあるように思うのは我々凡人の浅はかさだ。



師匠も弟子もない、と言うのが、わしの信念だが、そんな気持ちで努力して、何でも かんでも 人に負けまいと生きて来たけど、考えてみると、わしの半生は、失敗ばかりの 言わば 傷だらけのオンボロ人生という奴だろう。しかし失敗があって、初めて教えられたことが多かったように思う。昔の人は良いことを言って置いてくれたものだ。失敗は成功の母とか父ということだ。だから、わしは若い者の失敗には理解があるつもりだけど、同じ失敗を二度くり返すようでは余り褒められん。





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平田雅哉『大工一代』平成13年=2001年 初版(建築資料研究社)





今のような世の中なら、成功する奴より失敗する奴の方が、人間が立派だったかも知れんと思うことが多い。第一 金を儲けさえすれば人生の成功と見る、世の風潮は分らん。
商売人が金に執心するのは、金儲けということが、彼らの人生 最大の望みだから愛嬌もあるが、それにしても義理人情もわきまえず 金に執着する姿は嫌いだ。金に縁の無さそうな芸術家までが、最近ではマスプロ(大量生産を意味するマス・プロダクションの略)とかのおかげで、右往左往しているのは みっともない。なぜ こんな世の中になったのか、わしには分らん。それに比べると 昔の人の書いたものは、矢張り何処か気品があったように思う。生活と精神の持ち方から来ているのだろう。



中川宗匠に小言を言われたり、いつも喧嘩の原因になったことに、茶室の「躙り口」のことがある。躙り口は ご承知のことと思うが、だいたい二尺六寸程のものだ。それを わしは二尺八寸ぐらいにして、内法も少し大きくした。そのため宗匠から落ち着きが出んと、いつも叱られたが、わしの考えは昔の人間と今の人間では身長が違う、まして戦後は外人のことを考えに入れると、出入口で頭を打つのを気の毒に思い、一 二寸加減するのだが、宗匠には それが気に入らなかった。昔からの習わしのことだから仕方ないだろうが、今日まで わしは自分勝手の寸法でやって来た。



わしは一介の職人に過ぎんので、たたき大工としての苦心や工夫は、毎日のように続けている。これは天職だから仕方がない。芸術家とか学者だったら、こんな馬鹿気た苦労はしなくても、盲千人で、結構 先生だなんて言われて悦に入っていられるのだろうが、こと建築と庭については、わしには芸術家も学者もない。



京都に行くと 決って暇をつくり、大徳寺に寄り、あの広縁に座って暫く庭を眺めることにしている。大きな気持ちになって、暫くは何とも言えん。桂離宮や竜安寺の庭もそうだ。ことに わしの目に映った竜安寺の庭は、古い土壁と石組 白い砂利、それに見る場所の一致が良いのだと思う。これらの庭が、夫々いつの頃に出来たか知らんが、今の庭は、だいたい この辺の真似から出来ている。それが下手に真似るもんだから盆栽みたいになって、下らなくなる。だから わしは出来るだけ自然から真似ることにしている。山に行くと水の音、樹木の繁り工合など、参考になるものは沢山ある。



建築の設計と共に、わしは庭の設計をするが、始めに石組図を書き、また別に植木の種類と配置を書く。箱庭のようになるのが、わしは一番嫌いだ。庭で重要な役目を持つ石も、だから 出来るだけ自然の石を使うようにする。山では水の音を聞き、それを たどって行ってみると、思いがけぬ美しい流れに出会うことがあるが、僅かな水の感じでも、そういう気持ちが大切だと思う。植木屋に任せて困るのは、細い枝を やたらに切ってしまい、太い枝ばかりにしてしまうが、あれでは庭が堅くなって嫌だ。それに、やたらに石を積みたがるのも わしは好かん。



庭というものは「庭園それ自体が造型される空間である」などと、小難しいことを言うまでもなく、楽しいものだ。学者などの こんな小難しい理屈を聞くと、何を苦労して力んでいるのかと、忘れてしまう方を先にする。



昔から世話に「打つ、買う、呑む」と言うが、三つとも わしは嫌いだ。と言えば、嘘だとでも思うのか、皆わしの顔を見るが 本当である。しかし、全く この三つに今日まで無縁で来た訳ではない。それどころか、わしほど この三つの世界に育てられて来た者は ほかにないかも知れん。第一わしの親父は、俗に「打つ、買う、呑む」の達人で、それで一生を終ったような人だし、長じて 職人の仲間に入ってからも、多くの仲間は どれかそのうちの一つに秀れていた。自分の弱点を知っているし、そんな連中を余りにも多く見て来たので、嫌いになってしまったのかも知れん。



若い頃から今日まで、わしのような、大工以外は何事につけても不器用で、融通の利かん男が無事に過ごせて来たのは、一筋に仕事に執着できたからだと思う。仕事というものは苦しいものだが、その苦しさが また 楽しいようなもので、振返ってみて、何度か臨んだ わしの人生の危機は、いつも「仕事」一途に考えることで、免れて来たような気がする。



彫刻は職業柄、木に縁が深いので、一番身に合ったのだろう。木は 五十年 七十年 の成長を遂げたものでないと役に立たんので、それを使わして貰う身を心から感謝している。彫刻をやり出してから、捨てるような木の切れっ端でも大事にするようになった。



わしが彫刻に こり出したのは、終戦後の混乱した世の中で闇商売の噂しか聞かれないのが嫌さに、それを忘れたくて始めた。



大阪市展第一回に、偶然のことから この鯉と、板に雁を彫ったのと、鍾馗の衝立を出品した。展覧会出品のつもりはなく、当時、わしは熱海大観荘の工事に出張中で、家内が人に勧められて出品したのが たまたま入選した訳だ。



わしの彫刻が二度 市展に入選した。





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平田雅哉の彫刻(西村屋 平田館)





八月十五日の終戦の日、この交番は朝鮮人の襲撃を受けたということになっているが、実際は その日の夜更けに、酒に酔った朝鮮人三人が、大声で歌ったり、怒鳴ったりしたのを、交番の巡査が たしなめた。それがもとで乱斗になった。夜中に大きな声を出しやがるので、わしも目が覚めたところ、交番の巡査の妻君が、声を上げて人を呼んでいるので、わしは矢庭に飛び起きると、手頃の樫の棒を引っ下げて、いきなり相手の三人を叩き伏せてしまった。巡査も興奮して、直ぐ本署に連絡すると言ってきかなかったが、わしはそれを制して、こいつらも酒の上のことだから、それはするなと言いなだめて、此度は 朝鮮人に お前らは、祖国が独立したのだから嬉しかったのだろうが、日本人は敗戦で哀しんでいるんだ。暫くでも日本人として生活したんだったら、お互いに もう少し、いたわりの心があるのが本当やないかと、言ってやると、連中もよく分ってくれたので、本署にも連絡せず このままで治めることになった。



本職は大工だし、大工仕事が絵や彫刻よりも好きだったから、製図は随分書きまくった。夜の明けるのも忘れてやっていることもあった。今日、棟梁と言われるようになって、若い奴らを叱り飛ばしても、何とか聞いてくれるのは、この頃身につけた苦労のおかげというものだろう。一人前の大工で責任を持つようになってからも、いい仕事をすることが第一で、棟梁になりたいなどとは、さして考えなかった。



この年で、今までの苦労を省みて、思うことは「大工も一代」ということだ。よく尋ねられることだが、わしには師匠なし、弟子なしと答えているが、どうも人は それで満足してくれない。



弟子だの先生だのと言っても、生きている間だけだ。死んでしまえば何も無くなって、後は仕事が物を言うだろう。弟子だの先生だのといった、甘えた気持ちは、仕事をする上では邪魔になる。



わしという人間は、社交的な楽しみが少なく、人付合いも下手なので、建築屋仲間の付合いは、殆どしていない。



今まで吠えていた犬は、わしを思い出したのか尻尾を振って、体を すりつけるようにした。可愛いものだ。それにつけても腹立まぎれにツルハシで殴ったのは わしが悪かった。昔 浅香宮家の仕事をしていた時、四 五匹いた宮家のスピッツが、餌をやろうとされた宮様の手を嚙んだ。犬守りの男が怒って、犬を殴ろうとすると、宮様は殴ってはいけないと止められたが、わしに その心の余裕のなかったのが、思い出して悔やまれる。



宮さんの鳩を捕ったり、池の鯉を追い廻した子供の頃のいたずらは、誰でもやってきたことで 話すほどのことでもないが、今の子供と違って遊び場所も無ければ、野球なんてこともやらなかった時分であっては、動物愛護の精神にはもとるが、当時の子供としては致し方ない。世の中が進み、自由とか平和とか愛とか やかましいが、昔の人間と比べて、今の人間が掛け声ほど立派になったとは、どうも考えられない。人情とか義理のことになると、昔の人の方が数等立派だったように思えてならん。なぜ こんな違いが出て来るのか わしにはわからん。



この材木屋が今晩やって来た用件は、不動さんを信仰している病身の子供のために、不動さんの彫刻を彫ってやってくれんかということであった。病身の子供を持つということは さぞ辛いことだろうが、これも考えようで 子供に不憫がかかるから、一方 商売に熱心になれるので、商売が繁昌するのは子供のおかげと思わんならんと言ったことである。



手足まといになった下の子が死んだ時、坊さんも頼めんほど苦労していた。久し振りに子供を連れて新世界に行った帰り、その子供が仏壇屋の門に来ると、ひょこひょこ入って行って一つの仏壇を指差したが、その日、新世界で口に入れたものが原因で疫痢にかかって死んだ訳だ。この子さえなければと、抱いている子を石に叩きつけようかという気になったこともあるぐらいだから、実際は ほっとした訳だが、その時 子供が指差した仏壇が長いこと気にかかり、別に因縁話を信じる訳ではないが 死んだ子が あの仏壇に入りたがったような気がして、その後、小金が出来た時、その仏壇を買って子供の霊を祭った。人間の心は 強いことを言っていても、一面こんなに弱いものという証しを、自分でやったような結果になった。



どんな苦しい時も人の忠告という奴は余り耳に入れなんだ。自分の心の済む方法で、その哀しみを乗り越えた。家内を失った二度とも そうだったが、これまでの世帯を一切ご破算にして出発した。その方法は、道具屋でない屑屋を呼んで来て、家内の持物 箪笥ぐるみ めっそ(目分量)で売り払った。道具屋や古着屋だと、すこしでも高く売りたいという欲心に かられそうな気がするので、屑屋を呼んだ訳だが、屑屋は箪笥の中味を見せんので困ってしまって、仲間を呼んで相談してやがったが、お前たちには損はささへん、しかし無茶苦茶な値段をつけやがったら売らん、どうせ金は寺に供養するものだ、お前らも そこそこ儲けてくれればええ、てな次第だ。こんなことで満足できるかどうか。ひとには笑いごとに過ぎんだろうが、わしには どうもこういう けじめが必要らしい。





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平田雅哉『大工一代』昭和36年=1961年 初版(池田書店)





失敗は成功の基、と言うが、成程そうだろう。人間は失敗によって、種々のことを教わりもするし、新しい境地を開くことがある。失敗を恐れては何事も手につかない。矢張り身体を張ってやることだ。



わしの そそっかしさが起こす失敗は恥かしいことばかりだ。考え方に巾が無いので 普通の人より、余計問題を起こすことが多いのかも知れん。



失敗を恐れてはいかんと言ったが、しかし 同じような失敗を二度も三度も繰返すのは感心せん。仕事の上の失敗は一度限りでよいと わしは思っている。



建築は風呂敷には包まれんから、出来上りが、自分も また施主にも気に入らんといって、引っさげて持って帰る訳にいかん。そこで わしの流儀としては、どんな建築でも、おろそかな気持ちでは引受けられん。



最初から わしには師匠はない という信念だった。もちろん弟子もない。大工も一代だと思っている。だから若い連中にも言っているのだが、要は 根と努力だ、運は それについてくる。



父が無法な人だったので、十六歳で家を飛び出して以来、随分と苦労はした。世の中に神仏は無い。頼みとなるのは自分の精神力だけと思って来た。この考えは これからだって変るまい。



朝香宮が来られた時もこんなことがあった。それは自動車いっぱい七十円の櫟を買って、これで亭屋を建てろということであった。日数も五日しかない。とても出来んと言って半分 喧嘩別れの形になり、道具をまとめて枚方駅まで引き揚げて来ると、後から奥さんが追っかけて来て、何とかやってくれと頼まれるので、とうとう それに負けて引き受けてしまった。おかげで 三人の職人相手に その日から徹夜を続け、ようやく完成したが、今の職人だったら徹夜の賃金を要求するところだが、主人も それに触れないし、わしも とうとう一言も言わなかった。それが職人の意地だと思っていた訳だが、主人の我々を労ろう言葉は「やろうと思えば出来るではないか」という一言だけであった。



火事だという電話が かかって来た。びっくりした わしは、アイクチ一丁ふところにして 職人十人を連れて、枚方からタクシーを飛ばした。アイクチをしのばせたのは、万一わしの過失が原因ならば、腹を切って詫びんならんと思ったからだ。



「平田、少し財産を残しとかなあかんぞ。何だったら、儲けさせてやるから 釘 二千樽ほど買っとかんか」と言われた。なるほど釘の値の上ることは、恐らく間違いない。本当だったら買っとくべきところだが、儲けさせてやろうと言われれば、わしの悪い癖で、では頼みますとも言えず、当用買いに二千樽ではなしに二十樽だけ分けて貰った。運よく この二十樽は戦災にも遭わず、そのまま残ったが、戦後 釘が無くて困っている奴を見ると、隠し持っているのが嫌で、全部ばら撒いてしまった。そんな訳で、儲けどころか、反対に 持っていたために 損をしたことになる。仕事では儲けさせて貰いたいが、商売で儲けるという奴は、どうも わしの性に合わん。



どうも わしは亭主に意見をしてくれとか、道楽息子を叱ってくれとか、頼まれることが多い。別に わしは道徳堅固という方ではないが、職人風な義理人情が好きで、声が大きく、怖い顔をしているので、何だか そんなことに利目があるように思われるかららしい。





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平田雅哉『大工一代』平成13年=2001年 初版(建築資料研究社)





茶の間大工として身を立てて、既に四十年になる。わしのような がさつな男が、茶室専門といっては不服な人もあろうかと思うが、そうなってしまったのだから今更しかたがない。大工は親譲りで嫌いではない、早く大人になって立派な職人になり、苦労の多かった母に孝行したいというのが、子供心に ただ一つの望みであったのに、その母は わしの十六の時に亡くなった。それからは道楽者の父に反抗して家出、放浪、旅修行と 波乱に富んだ青年時代を過ごした。その間 一度だけ職業軍人になろうと思ったが、これは入営中 馬から落ちて足を傷め、僅か一年で除隊になったので諦めねばならなかった。爾来、自分が大工であるということを疑ったことはない。



こと建築に関しては工夫もし、勉強もして来たが、茶の作法というようなことは未だに一向無関心である。しかし「茶」こそ習わなかったが大工として茶室を専門にしたということは良かったと思っている。商売としては余り儲けにならんが、目に見えない心への影響は確かにあった。もともと絵とか彫刻は好きであったが、それに一つの方向を与えてくれたのも、茶室を専門にしたおかげであると思う。建築に関すること以外は考えなかったようでも、いつか 目を ひらいて貰っていた訳だ。



何人かの金持の方々が、平田 少し金儲けを考えろと言って、知恵をつけて下さったこともあるが、どうも性に合わんことは駄目だ。職人は職人のような生き方が一番 太平楽だと考えている。



へいそうですかで安い仕事で誤魔化せばいいようなものの、わしには そいつが出来ん。自分でも不満足な仕事を残すのは本意でない。と言っても意地ずくで、かかって損をしていては仕事が続かん。だから わしも頑固に頑張った。



わしは家の若い者には、小さい間違いは怒り、大きい間違いは怒らぬ方針をとっている。そうなると小さい間違いという奴は、やたらにあるもので、朝から晩まで怒らんならんことばかりなので、怒るのもまた辛い哉である。今日では事務所ばかりでなく家の内の者まで怒られるのが普通になってしまって、家の名物にされているようだ。親父さんが怒らなくなったら危ないというのは、怒らなくなった死ぬとでも思っているのだろう。本当は わしは怒っているのではなく、口が悪く、礼儀を知らんだけのことである。



大工の職人だから鉋や鋸を持つのは当り前だが、当時から今日まで一日も欠かさないでやっているのは製図である。昔は筆で書いたものだが、今では当世風に鉛筆である。最近の建築になると、種々新しい工夫も加わるので一つの建築に五十枚ぐらい書く。しかし わしは設計屋ではないので、設計代というものは取ったことがないが、この間 知人に製図を引いているわしの傍らで「平田の設計」はいくらぐらいだと訊ねられて吃驚した。金で設計を勘定する癖がついたら、わしの設計は駄目になるだろう。



大工の仕事というのは その場限りという訳にはいかん。少なくとも わしは そんな気持にはなれん。後々まで責任が残るので、予算を度外視して気の済むように工夫するので、後で文句を聞くことはない。



わしは施主の難題だったら、何でもよく聞くことにしている。そして施主の気持になって充分に工夫して見る。これは施主のためよりも建築が可愛いからだ。



施主は建築のことは何もわからん。だから誤魔化してもいい、というのは間違いで、施主は何でもご存知だ、だから いい加減な仕事をするな、こう わしは若い連中に言っている。



わしの喋り方は、どこかに角があるのか、土台うまく行かん。氏育ち共に たたき大工で、行儀というものを知らんから、当たり前のことだが、現場で木の匂いにまみれながら、汗だくで働き、ひと癖ある職人相手に怒鳴り散らして来た癖で、家の中だからといって、優しい声でという訳に行かん。それで、とかく どぎつく聞こえるらしい。



わしは彫刻を売ったことがないので、こいつは困ったが、相手の熱心さに、とうとう それを ただで やってしまった。



迷信というものは、わしは嫌いだ。嫌いだから迷信とか奇跡風なことにぶつかると、とことんまで確かめんと気が済まん方で、それは 子供の時からの癖だ。



さっそく仕事の話にかかるつもりで待っていたが、「なだ万」では我々を室に通したまま、誰一人顔を出さない。どうしたんかと、けげんに思いながら なお待っているが、いっこう同じだ。それに隣室からは話し声なども聞こえ、何だか わしは馬鹿にされているような気がして、急に「帰ろう」と座を立って表に出かけた。若い連中も慌てて わしについて来た。事を荒ら立てたくないが、腹が立つと、つい辛抱できんのが、わしの欠点だ。この気配に「なだ万」もびっくりしたのだろう。血相を変えた女将が、出て来て、「まア、棟梁、どうなさったんです」と、言う訳だ。こっちは少々腹を立てていたので、そのまま言ってしまうと、「まア、それは大変、済まんことですが、私どもでは、夜行で着かれたと聞いて、暫く休んでいただいた上でと思って、ゆっくりしていました」という次第で「棟梁が、そんなに気短とは知りませんでした」と、罪のないのに謝られたのでは、かえって こちらの恰好がつかん。



持ち前の短気から喧嘩別れしてしまった人もあるが、この年になっては、相手は どう思っているにしろ、人生のある時期に、楽しい交際が、できたということは、それだけでも よいことであったと思っている。





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平田雅哉『大工一代』三種





勉強不足で、数寄屋建築の名匠 平田雅哉のことは全く知りませんでした。永見先生が、じゃあ、これを読むとよいですよ、と手渡してくださったのが『大工一代』です。「この本を読んで胸がいっぱいになった。君は感激するタチだから泣いてしまうかもしれない。」と注意していただいたのに、不覚にも涙してしまいました。

面白かったのは、永見隆幸先生と似通ったところが意外に多かったことです。基本的には芸術家体質で天才肌なのですが、職人気質なところもある永見先生。懐が深く器が大きいのにセッカチなところ。義理人情に厚いところ。筋を通し、けじめをつけるところ。礼儀の部分は かなり違いましたが… いずれにせよ永見先生の人物像を探る上でも参考になりました。

興味を持った方は 、平田雅哉『大工一代』を、是非、読んでみてください。





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知識や仕来たりに囚われず、自分の経験と勘だけで強く生きて来た平田氏のような人物には、今日では、遺憾ながら、めったに出会えなくなった。せめてこの本で、こういう生き方もあったという事実を、老人はもう一度思出し、青年は はじめて知ってもらいたい。

平田雅哉『大工一代』 福田恒存 序文より



平田さんに会った時、その顔に刻まれた太い皺を見て、これこそ風雪にめげない名人の顔だと思った。大袈裟に表現すればミケランジェロの顔に似たものがある。我々は簡単に名人のことを口にする。しかしながら真の名人芸を身につけた人は滅多にあるものではない。自ら一家の芸を打ち樹てるには強い意志を持ち、不断の努力をし、時としては人にかえりみられない辛労を積み重ねなければならない。そういう一筋の路を歩いて、はじめて天賦の才が発揮されるのだ。

平田雅哉『大工一代』 今東光 序文より



数寄屋建築にかけては、平田棟梁は、日本で屈指の存在である。しかし、世間では余りそれを知らない。棟梁自身も、一向無頓着なのである。およそ人中に出ることを喜ばず、夜は彫刻をやるか、絵を描くかの二つだが、事 建築に関しては鬼だ。勝負の鬼だ、芸術の鬼とはよくいうが、そういう鬼だ。

平田雅哉『大工一代』 内田克己 あとがき より



映画に先立つ舞台公演では、完成を目前にした建物が台風で倒壊するというラストシーンに対して、演出をした菊田一夫氏に「風で壊れるような家を建てたことはない」と談じこんだというエピソードが残されています。

平田雅哉『大工一代』 平田雅映 復刊によせて より





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ええか、よう聴きや。お前の傷は嘗めりゃ治るが、この柱の瑕は永遠に直らんもんじゃ。分ったかー!

映画『大工太平記』(昭和40年=1965年/制作:東宝/主演:森繁久彌)より



技を見せびらかすのは、やらしいね。

平田棟梁の口ぐせ



棟梁はこんなふうに自分の心情を語っている。
「わしを信用せんのやったら寄ってくるな」
「大阪の工夫と関東の気っ風。この両方が上方には必要なんや」
「どんな時でも、うろうろする奴が一番あかん」
「この人は偉い人やと思うたら、その人のことが盗めるまで、自分の文句を言うな」。

松岡正剛の千夜千冊 531夜『大工一代』より





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実際に 平田棟梁が製作した図面を ご覧になった永見先生は、一幅の名画のように美しかった、と感想を語っておられます。彫刻についても 趣味の域を遙かに超えたもの と述べられました。





音楽、舞台、美術、衣装、建築に至るまで、芸術全般に造詣が深い永見先生。知識を得たり教養を深めたりするのに さぞ努力されているのだろうと思って伺ってみたら…


自分の感性に訴えて来るものを拾い上げて楽しんでいるだけです。知識や教養を意識したことはありません。


という お答えでした…





永見隆幸 西村屋 平田館 を訪問
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平田雅哉 数寄屋造


永見隆幸 つるや 訪問
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