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西村屋 平田館 永見隆幸 訪問 平田雅哉 数寄屋造 [永見隆幸先生information]



永見隆幸先生が兵庫の豊岡にある西村屋の平田館を訪れました。



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平田館 観月の間 で寛がれる永見先生



西村屋本館は、江戸時代の安政期以来150年の歴史を誇る由緒ある老舗旅館。なかでも西村屋の真骨頂と言われるのが、数寄屋建築の第一人者と称される平田雅哉によって昭和35年に建てられた別棟の平田館です。平田雅哉の代表作の一つとされる平田館は、国の登録有形文化財(建造物)に指定されています。60歳を迎えて円熟期となった平田雅哉の傑作です。



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廊下から見える立派な玄武岩の石垣



平田館は、日本庭園を取り囲むような回廊式の建物で、一つの庭がそれぞれの部屋から見る角度や高さで全く違った庭のように見えます。部屋から眺める庭は、それぞれ異なる趣向を持ちながら、一つの庭として構成され、建物と一体に。



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中庭を背景に



数寄屋造りを基調とし、伝統の意匠と現代の技法が巧みに融合されている客室。袋戸、棚明り取りなど、室内の至る所に創意工夫に満ちた平田数奇屋の真髄を見ることができます。

平田雅哉の代表作の一つと言われる露天風呂付特別室「観月の間」。欄間や障子の桟などの随所に細工が施され、季節のしつらえは代々伝えられる貴重な収蔵品。十六畳という広さに、庭を見下ろす高床式の造りが、更に解放感をもたらします。



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観月の間で 蒔絵が入った輪島塗の見事な大座卓を前に 寛がれる永見先生





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平田雅哉 HIRATA Masaya

明治33年(1900年)~昭和55年(1980年)
大阪の堺生れ。生涯で400にも上る建築を手掛け、数寄屋建築の名工としてその名を馳せた。藤原新三郎の下で修業し、後に事実上の後継者になる。大工として働きながら自ら図面を引いた。製図や彫刻にも堪能で、それらにも多くの時間を費やした故に、作品が数多く残されている。昭和の左甚五郎と謳われた。

平田雅哉が語り、内田克己によって聞き書きされた「工匠談義」が、「大阪手帖」に5年にわたり連載される。それを書籍化した『大工一代』(昭和36年=1961年/発行:池田書店)は大評判になり、『大工太平記』(昭和40年=1965年/制作:東宝/主演:森繁久弥)として映画化された。

書籍に、『数寄屋建築・平田雅哉作品集』(昭和43年=1968年/発行:創元社)、『数寄屋造り・平田雅哉作品集』(昭和47年=1972年/発行:毎日新聞社)、『床の間図集』(昭和50年=1975年/発行:創元社)、『数奇屋建築の技法 平田雅哉から平田建設へ』(昭和60年=1985年/編集:和風建築社)など。

主な建築作品に、旅館「西村屋」(兵庫)、料亭「吉兆」高麗橋本店(大阪)、旅館「大観荘」(熱海)、旅館「つるや」(芦原)、料亭「雲月」(京都)、旅館「万亭」(和歌山)、料亭「招福楼」(八日市)、西南院(高野山)、料亭「錦戸」(大阪)、料亭「洗心亭」(大阪)、朝香宮邸茶室「光華」(東京)、茶室「如意庵」(大徳寺)、茶室「松籟亭」(広島)、「万里荘」(大阪)、料亭「なか川」、料亭「わか松」、料亭「相生」、料亭「現長」、料亭「青雲」、旅館「福田」、川上神社茶室、源生寺、川端康成の常宿だった金森旅館、ほか。





丹下健三と並んで日本建築界の巨匠と称される村野藤吾が、初めて平田雅哉に会った時の印象を、エッセイ「最後の一人」で次のように述べています。


長い間の修練に耐えて自我を通してきた「大棟梁」の面影があった。その気骨は、金と権威に自らを捨てぬ 不屈の魂が躍如として、寄らば切らん の構えが感ぜられた。私は棟梁の向こう側に座った。瞬間、一言も言わないうちから この勝負は私が負けたと思った。





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深い格縁で組んだ格天井が特長的な 観月の間





平田雅哉の言葉を『大工一代』から引用させていただきます…





今 言っている数寄屋建築は、茶室建築と住宅建築が、両方から影響し合ったものと思っているが、一口で言うと、その特色は壁面が広く、天井の低いことだろう。だいたい軒が低く、壁面の多いことは安定感を与える。軒が低いと天井に重量が掛かるので、数寄屋建築では そこに種々工夫が要る。これを外観から見ると、軽快で安定した感じが出る。それだけに建築上の工夫が内に深く隠されている訳だ。自然そのために 使われる材料の木材も吟味され細くて強いものが使われるが、わしは丸太を有効に使うようにしている。材木は太いばかりが強いとは言えないのである。同じ材木でも目が通っているのと そうでないのとでも大変違っているし、また目が細かいか粗いかでも違って来る。
わしは材料を材木屋で買うと、高くつくので、山から丸太を買って、うちで挽くが、丸太を挽くのも楽しいものだ。節があれば節を包んでしまうような挽き方も出来るから 工夫という奴は面白い。



新築だからといって、材木が全部新しいものでなければならんということはない。使う場所によっては、古材で十分だし、古材の方がよいということは沢山あるが、施主にしても職人も これを余り喜ばん。仕事が面倒だったり、損をするような気がするからだろう。しかし古材はよく乾燥しているから、狂いが少ないが、若い新材は 日が立って狂いが出て来る。
設計のことでは、通風、採光は誰しも考えるし、当然のことだが、矢張り環境のことも考えることが大切である。その時も、己だけの利益を主にすることは よくないと思う。隣近所があっての自分の家だ。如何に建築が立派でも隣り近所に迷惑を掛けてはよくない。なかなか そんな風には考えられんらしいが、そのぐらいの思い遣りがあって、はじめて家にも施主の品位があらわれるものだ。設計をする我々が先ず そこを考えんならんことは当り前のことである。





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観月の間





建前も何の間違いもなく終わって、あとは ご祝儀の酒になった。その時、黒徳は よくやった と褒めてくれてから、お祝いに秘密の仕事を教えようと言った。それは六角の墨の仕様だった。六角の墨付は宮大工には大切なことだが、わしら茶の間大工には さして必要ではなかった。しかし、これは昔から大変難しい仕事の一つに挙げられていた。
黒徳は一通り六角の墨付を説明してから「分ったか?」と言ったが、わしが「分らん」と答えると、黒徳は もう一度説明し直してから、「どうだ」と聞くので、「まだ、分らん」と言ってから「せっかく教えて貰って有難いが あなたの教えてくれたのは、一通り教えてくれたというだけで、何か肝心のことが欠けているように思う」と付加えると、黒徳は「それが分っていれば、もう教えるに及ばん」と言った。



京都に行くと 決って暇をつくり、大徳寺に寄り、あの広縁に座って暫く庭を眺めることにしている。大きな気持ちになって、暫くは何とも言えん。桂離宮や竜安寺の庭もそうだ。ことに わしの目に映った竜安寺の庭は、古い土壁と石組 白い砂利、それに見る場所の一致が良いのだと思う。これらの庭が、夫々いつの頃に出来たか知らんが、今の庭は、だいたい この辺の真似から出来ている。それが下手に真似るもんだから盆栽みたいになって、下らなくなる。だから わしは出来るだけ自然から真似ることにしている。山に行くと水の音、樹木の繁り工合など、参考になるものは沢山ある。





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観月の間 の庭
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建築の設計と共に、わしは庭の設計をするが、始めに石組図を書き、また別に植木の種類と配置を書く。箱庭のようになるのが、わしは一番嫌いだ。庭で重要な役目を持つ石も、だから 出来るだけ自然の石を使うようにする。山では水の音を聞き、それを たどって行ってみると、思いがけぬ美しい流れに出会うことがあるが、僅かな水の感じでも、そういう気持ちが大切だと思う。植木屋に任せて困るのは、細い枝を やたらに切ってしまい、太い枝ばかりにしてしまうが、あれでは庭が堅くなって嫌だ。それに、やたらに石を積みたがるのも わしは好かん。



中川宗匠に小言を言われたり、いつも喧嘩の原因になったことに、茶室の「躙り口」のことがある。躙り口は ご承知のことと思うが、だいたい二尺六寸程のものだ。それを わしは二尺八寸ぐらいにして、内法も少し大きくした。そのため宗匠から落ち着きが出んと、いつも叱られたが、わしの考えは昔の人間と今の人間では身長が違う、まして戦後は外人のことを考えに入れると、出入口で頭を打つのを気の毒に思い、一 二寸加減するのだが、宗匠には それが気に入らなかった。昔からの習わしのことだから仕方ないだろうが、今日まで わしは自分勝手の寸法でやって来た。





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観月の間





彫刻というと生意気かも知れんが、根が好きだったことにもよるが、終戦直後の闇商売が嫌で彫刻を始めた。やり出してみると、捨てる木も何かの形になるので、おいおい深入りして、いまだに続けている。



彫刻は職業柄、木に縁が深いので、一番身に合ったのだろう。木は 五十年 七十年 の成長を遂げたものでないと役に立たんので、それを使わして貰う身を心から感謝している。彫刻をやり出してから、捨てるような木の切れっ端でも大事にするようになった。



大阪市展第一回に、偶然のことから この鯉と、板に雁を彫ったのと、鍾馗の衝立を出品した。展覧会出品のつもりはなく、当時、わしは熱海大観荘の工事に出張中で、家内が人に勧められて出品したのが たまたま入選した訳だ。





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観月の間 の露天風呂
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建築は風呂敷には包まれんから、出来上りが、自分も また施主にも気に入らんといって、引っさげて持って帰る訳にいかん。そこで わしの流儀としては、どんな建築でも、おろそかな気持ちでは引受けられん。



大工の職人だから鉋や鋸を持つのは当り前だが、当時から今日まで一日も欠かさないでやっているのは製図である。昔は筆で書いたものだが、今では当世風に鉛筆である。最近の建築になると、種々新しい工夫もくわわるので一つの建築に五十枚ぐらい書く。しかし わしは設計屋ではないので、設計代というものは取ったことがないが、この間 知人に製図を引いているわしの傍らで「平田の設計」はいくらぐらいだと尋ねられて吃驚した。金で設計を勘定する癖がついたら、わしの設計は駄目になるだろう。





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観月の間 の庭





若い間だけだから、人の二倍も三倍も勉強しろ、つまり働きながら研究するように言うが、何となく打てば響くという感じは出ん。わしらの若かった時は、何でも人に遅れを取らんようにと、腕を磨いたものだ。
年功などより、職人の値打は腕しか無かった。腕が無ければ、なんぼ年上でも小さくなっていなければならなかったものだ。また後輩で修行中の者は、先輩たちが休んで火を囲んでいる時でも、自分から進んで、先輩たちの道具を磨いたりしたもんだ。決して皆と同じように火に当っていることは許されなかった。一事が万事その調子で、職人の生命は腕しかなかった。もちろん腕はあっても身持ちが悪かったり、その他の欠けるところがあって脱落して行く職人も、たまにはと言うより、永い一生の間では数多く見てきたが、これは職人に限らん、人間という奴だ。運命となると、人は明日のことも分らん。だから、今日の日を誠実と親切で生きて、仕事に責任を感じろというのが、簡単に言えば わしの説教だ。





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観月の間





勉強不足で、数寄屋建築の名匠 平田雅哉のことは全く知りませんでした。永見先生にお借りしたのが平田雅哉の『大工一代』です。

興味のある方は 、平田雅哉『大工一代』(角川ソフィア文庫 平成30年発行)を読んでみてください。お勧めします。とても面白い本です。





知識や仕来たりに囚われず、自分の経験と勘だけで強く生きて来た平田氏のような人物には、今日では、遺憾ながら、めったに出会えなくなった。せめてこの本で、こういう生き方もあったという事実を、老人はもう一度思出し、青年は はじめて知ってもらいたい。

平田雅哉『大工一代』 福田恒存 序文より



平田さんに会った時、その顔に刻まれた太い皺を見て、これこそ風雪にめげない名人の顔だと思った。大袈裟に表現すればミケランジェロの顔に似たものがある。我々は簡単に名人のことを口にする。しかしながら真の名人芸を身につけた人は滅多にあるものではない。自ら一家の芸を打ち樹てるには強い意志を持ち、不断の努力をし、時としては人にかえりみられない辛労を積み重ねなければならない。そういう一筋の路を歩いて、はじめて天賦の才が発揮されるのだ。

平田雅哉『大工一代』 今東光 序文より



数寄屋建築にかけては、平田棟梁は、日本で屈指の存在である。しかし、世間では余りそれを知らない。棟梁自身も、一向無頓着なのである。およそ人中に出ることを喜ばず、夜は彫刻をやるか、絵を描くかの二つだが、事 建築に関しては鬼だ。勝負の鬼だ、芸術の鬼とはよくいうが、そういう鬼だ。

平田雅哉『大工一代』 内田克己 あとがき より



映画に先立つ舞台公演では、完成を目前にした建物が台風で倒壊するというラストシーンに対して、演出をした菊田一夫氏に「風で壊れるような家を建てたことはない」と談じこんだというエピソードが残されています。

平田雅哉『大工一代』 平田雅映 復刊によせて より



ええか、よう聴きや。お前の傷は嘗めりゃ治るが、この柱の瑕は永遠に直らんもんじゃ。分ったかー!

映画『大工太平記』(昭和40年=1965年/制作:東宝/主演:森繁久彌)より





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観月の間





実際に 平田棟梁が製作した図面を ご覧になった永見先生によると、一幅の名画のように美しかったそうです。彫刻についても 趣味の域を遙かに超えたもの と述べておられました。





音楽、舞台、美術、衣装、建築に至るまで、芸術全般に造詣が深い永見先生。どうやって学んで来られたんでしょう…





永見隆幸 平田雅哉『大工一代』を読む
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https://merry-3.blog.so-net.ne.jp/2018-08-05
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HIRATA Masaya "Life Carpenter"


永見隆幸 つるや 訪問
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